こんにちは、マッキーです。
明日から6月ですね!
4、5月はバタバタが続き、時々深呼吸したくなると、
緑があるところに出没してました。
といっても、ゆっくりとした時間はなかなか取れず、
都内の公園とか、明治神宮とか。
スーハー。深呼吸。。
特に明治神宮は観光客が多いですねー。
たくさんの人が自撮り棒を使ったり、手を延ばしたりして、
自分をいれた写真を撮っていました。
いい笑顔で、みなさんなんだか楽しそうで。
でも、私、このセルフポートレートが本当に苦手でした。
(観光地であっても)
私がはじめてちゃんと写真と向き合って、
セルフポートレートを撮る、となった時、
真っ先に思ったことは「いやだなぁ。。」でした。
「世界にはいっぱいすてきなものがあるのに、
なんで、自分で自分を撮ったりしないといけないの?」
「そこに一体何があるというのさー!」
と思うくらい、
自分は自分を被写体に値するとは思っていなかったんですね。
でも、「せっかく撮るのであれば、自分らしくは撮りたい。」
そんな気持ちもあり、
複雑な乙女心といいますか、
葛藤しながら撮ったことを覚えています。
それがどんな写真だったかというと、
私は本が好きで、本棚を見られることは自分の内側を覗かれるような気持になります。
でも、そこには“私らしさ”があるのも事実。
それで結局、本棚の前に立つ自分をピントをぼかして撮りました。
見せたいんだか、見せたくないんだか、、、。
このプロセスにまんま自分が出ていて、笑ってしまいました。
そして、その1枚から、
私の写真との…いや、写真を通した自分との付き合いがはじまったのです。
その頃の私は、調子が良くなく、顔は吹き出ものだらけ。
そんな状態の、しかも夜家に帰ってきて疲れてる自分を毎日撮り続けました。
その体験というのは、
誰に見せるわけでもないのに(自分で見るだけなのに)、
それでもその写真たちは受け入れがたい...。
そんな体験でした。
つまり、当時の私は、
「自分のこの部分は受け入れられるけど、こういうところは受け入れたくない」
そんな風に思っていたのでしょう。
自分自身にすら受け入れてもらえない部分があるなんて、
そりゃあ、生きにくかろう!
と、今なら思います。
そして、毎日写真を見ては、
「ぶさいくだなぁ」「見たくもない!!」
なんて否定しながら過ごし続けたある日、
「これらのどれもが自分でしかないんだなぁ」と
たんたんとした気持ちがやってきました。
いいなー、悪いなー、
美しいなー、醜いなー、
そういった評価がなく、目の前のもの(自分)をそのまま両手で受け取ったような、そんな不思議な感覚でした。
これが私にとってのセルフポートレート体験。
これはフォトのクラスでも毎回やりますが、
もちろん、人によって全く体験もそれぞれ。
自分を受け止めていく作業だったり、
解放していく作業だったり、
表現を楽しむ作業だったり。
そんな風に一人一人違うのですが、
必ずいつも同じことが一つだけあります。
それは、どの写真も美しいということ。
本人は、きゃあ、きゃあ、言ってたりするんですけどね。
自分で撮った自分の写真は、
誰が何と言おうと本当に美しいのです。