こんにちは。井川です。
アートセラピーの現場をお伝えする、セラピストによるリレーコラム。
私の回では、まずは自分自身のことを少しお話しするところから始めたいと思います。
この経験なしには、今の私のアートセラピーでの関わりは語れない気がするのです。
はじまりは、「子育て」。
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子育てと仕事のあいだで生じた葛藤
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発達障害と診断された子どもと向き合うなかで、私は常に「できること」と「できないこと」という視点につきまとわれているように感じていました。
支援の枠組みの中で行動や発達が数値化され、他者と比べられているような感覚になってしまうことも少なくありません。施設に通いながら日々を過ごす中で、親としての関わりに自信が持てず、自分のあり方を否定してしまうこともありました。
一方で、当時の私の仕事は「保育士」。
多くの子どもや保護者と関わる支援者という立場にありながら、どこか自分の中に迷いを感じていました。
家庭での様子をおうかがいする言葉が、否定されているように受け取られてしまうのではないか。
励ましの言葉が、押しつけのように聞こえてしまうのではないか。
そして私は、本当に園児たちや保護者の方々に寄り添えているのだろうか。
そんなことを問い続ける日々。
私自身が“支援を受ける側”として感じていた葛藤は、そのまま“支援する側”としての気持ちの揺らぎにもつながっていったのだと思います。
本当にその人自身に寄り添う関わりって、なんだろう…?
その問いの答えを、私はずっと探し続けていました。
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役割から離れて、「自分」を感じる時間
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そんな葛藤の中、私はあるアートセラピーの体験に出会いました。
「今の気持ちを、色や線で表してみましょう」
そう言われて真っ先に思い浮かぶのは、家族の顔。
けれど私の手は、気づけばギザギザした線を画面いっぱいに描いています。
「こんな絵を描くなんて、ひどい親だと思われる」
不安を抱えながらも、恐る恐る絵を見せました。
けれどその場では、親子関係を詮索されることも、親としての評価をされることもありませんでした。
セラピストからの問いかけを受けて私から出てくる言葉は、子どものことではなく、自分自身のことばかり。
「“普通に育てられない”のは、自分のせいだ」
「本当は、もっと心から子どもに寄り添いたい」
「でもそれが、うまくできない。ずっと苦しい」
「本当は私がさみしいのかもしれない・・」
支援の場でも、家庭でも、どこにも置き場がなかった、そんな感情たち。
でも、アートの場は、そんな感情も当然かのように、私のことを受けとめてくれました。
誰にも責められることなく、ただ静かに見守られる中で「親」という役割をおろしたとき、私は初めて「自分」という存在を感じられたことに気づきました。
そして、子どもたちと向き合う自分自身にも、やっと優しくなれたような気がしました。
アートセラピーの場は、「今の自分」をそのまま表現することができる場所。
そしてそこに、本当の意味でその人自身に寄り添おうとする関わりを、やっとみつけました。
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アートとともに紡ぐ、ひとりひとりの物語
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私は現在、子どもから大人まで、さまざまな方とのアートの時間を過ごしています。
そこであらためて感じるのは、障がいの有無や支援する・される関係を超えて、アートには「その人の尊厳を守る力」があるということです。
言葉にすることが難しい方にとっても、「わかってもらえた」「ここにいていいんだ」と感じられるような、誰もが“ひとりの尊い人”として、そのままでいられるアートの場所。
そんなアートの時間で紡がれた、ひとつひとつの尊い物語を、今後も少しずつお伝えできたらと思っています。
文:井川幸子(マスターアートワークセラピスト/キャリアコンサルタント/保育士)