わが国において日本芸術療法学会に統合されている療法の種類は、絵画、音楽、詩歌(俳句・連句)、文芸、ダンス、箱庭、心理劇、陶芸、園芸など、多種類に渡る。
おのおのの領域は、固有の実践的な特色や理論的アプローチ、さらに歴史をもっており、治療として必ずしも一つの方法や次元として括ることはできない。しかし、これらのいくつかの治療技法は、表面的にはそれぞれ異なっているように見えて、じっはその基礎的な部分では、共通の理念が存在している。それは、芸術療法で扱われているイメージというものが、治療者によって計画的・意図的に誘導されるものではなく、保護されて治療環境のもとで、あくまでもクライアント自身の自発的で無意識的な投影が認められることを前提としていることであろう。
加えてそこに、「芸術を創造する力」が有する「イメージ(表象、心象、象徴などを称して)を吐き出し、イメージを見、イメージを感じ(聴き)、イメージを語る」力が与える「自己治癒力」の存在を認めていることがあげられるよう。(出典:「芸術療法」飯森眞喜雄(編集) 日本評論社)
誰もが最初から無意識的な絵を描いているのか?と言えばそれは誰にもわからない。だけれど私の経験から言えば、少し最初は描くことへの照れや抵抗、また何やらされているのかなぁ?という疑問などが浮かんで集中しきれずにいることがあった。
ところがある一定のところを越えた途端に何かが始まる。
自分スイッチとでもいうのだろうか。
何かの感覚に触れた時なのかなんなのか、自分にOKを与えていくかのようだ。
自分では止められないし、行くところまで行きたい!くらいの気持ちが沸き出て
クレヨンの周りの紙を剥いて、爪の中にもクレヨンが入り込み、
手指はもういろんな色に染まって、気がつくと息使いまで荒くなって・・・
そしてある瞬間、ぴたっと止まる。
多分それは「満足」「満ち足りた」「やりおえた」
そんな感じでしょうか。
これまでに何度そんな時間を過ごしてことでしょうか。
それはクレヨンだけない、紙をちぎる、割く、張り付ける、形を変える
絵の具で塗り重ねて、重ねて、最後に全部はぎ取って・・・・
それまでの混沌とした気持ちが少し楽になっていたり
何より荒い息使いはちょと体を動かした後のよう感覚でもあり
目の前に現れた自分が描いた世界は、
時にへんてこ 時にみにくい、時に残酷、時にわらっちゃって
時にかなしく、時にやわらかく、時にうれしく、時に美しい
まるでプリズムのように自分の内面を
見せてくれる
見せつけてくれる
「あははは。これが今の私なんだな」って
思わずわらう。。。
だけどどこかすがすがしさがあるのはなぜだろう。
肩でしていた息が、自然と自分を整える息にかわるころ
自分自身の感覚を取り戻し、深い安心に包まれる。
自分の中に自分を取し戻す力があることを知る
つくづく人間って素晴らしいとわたしは思う。
Staff.Y
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